
国語教科書の音読は海外の補習校でも日本の小中学校でも重点的に指導されている。音読とは文章を声に出して読むことである。
以前、アデレードの土曜校を訪問したとき、小学校高学年の子どもたちが大きな声で教科書を音読する授業を参観した。つかえながらも懸命に音読する姿に感心した。聞くと、音読が学校の指導目標であるということだった。日本語が第二言語である子どもたちにとって教科書が読めて内容がつかめればすばらしいことである。
日本の学校でも国語授業の中で子どもたちに教科書を音読させている。先生の後について全員で音読させたり、一文読み、段落読みなど一人ひとりに音読させたりする。座席順に音読を指名すると、子どもは自分の番を数えて、どの個所を読むか見当をつけ、こっそりと読めない漢字など調べ始める。友達の音読やそれに対する先生のコメントをしっかり聞くことも大切なことであるのだがそれどころではない。そんな「どきどき経験」を多くの方がお持ちだろう。
いったい教科書の音読にはどんな意味があるのだろうか?音読をやれば国語の学力は向上するのだろうか。結論から言えば、音読だけで国語力を伸ばすことはできない。音読は国語学習のひとつの方法である。初学者が取り入れるべき効果的な学習方法であることは確かなようだ。
では、繰り返し音読することで何が習得できるのだろうか。
1)漢字や語句の読み方、意味などを文章の中で理解して、覚えることができる。
2)文章の意味内容を把握することができる。
3)日本語文章を正しく、わかりやすく区切って読むことができる。
こうした観点から音読は初学者に重視されるのである。
一般的に音読が苦手な子どもは漢字や語句などの語彙力が十分ではない。助詞の使い方や語句のまとまりも理解していないため、変なところで切って読む。だから文章の意味も把握できない。これでは音読にならない。やがて音読を嫌がるようになる。音読苦手を好きにさせる原則は評価と継続である。間違いを正しながらほめること、そして音読を長く続けることだ。好循環を作り出すことによって苦手は解消できる。
音読はもともと人に聞かせるための手段である。もちろん漢字や語句を理解し、適切に区切って読むことを自分の耳で確認する目的もある。先生にとって子どもの語彙力や文章理解力を判断する方法にもなる。音読は人にわかるように読まなければならない。読み手の感情が入れば朗読となる。絵本の読み聞かせや紙芝居はりっぱな朗読である。
しかし音読は、私自身の場合、なぜか思考力や想像力を鈍らせる。音読中に考えたり、想像したりすることがうまくできない。音声を発することに注意力が向いているためだろうか。音読しながら思考や想像を働かせるにはそれなりの訓練が必要かもしれない。
ところが黙読(もくどく)のときはそれができる。黙読は声に出さずに読むことで、読書はふつう黙読である。黙読は音読よりも速く読むことができるし、読みながら考え、想像することができるのだ。
音読が人に聞かせる作業であることに対して、黙読は自分が内容を読み取る作業である。黙読しながら、中断して考えたり、想像しながら読み進んだりする。内容や行間を読み取り、心の中で喜んだり、悲しんだり、感動したり、ときには憤慨したり、つまらないと思ったりする。感情や思考を伴うこうした作業は取りも直さず「読解」と言える。だから黙読は読解力を養う。国語力の向上に黙読は欠かせない。
音読は、初学者にとって、基礎を培う学習となる。音読がおぼつかない状態では黙読もできない。
音読にさいしては、わからない漢字、語句を残したまま通過しないこと。大変であっても辞書を使って調べさせたりして語彙力を増やしていくこと。その上で文章の内容を理解して、正しい区切り方、抑揚、リズムに注意しながら音読する。そうすれば音読が違和感のないレベルになるだろう。

- 藤家 管幸
- メルボルン補習校名誉校長
日本で32年の教職経験を経て、2005年4月からメルボルン国際日本語学校校長を勤める。 2009年12月同校退職。2011年4月メルボルン補習校校長に就任。2016年メルボルン補習校名誉校長に就任。





